2011年4月5日火曜日

被災地宮城に行ってきました。

震災はから約3週間の3月30日、31日に会社から休みをもらって被災地宮城に行ってきた。
交通の便が悪かったとは言え、今まで宮城に行けなかった・・いや行かなかった自分が情けない。

東北道は全て通れるようになり1泊もあれば十分、ということで今回は1人で行く事に。
宮城は食料や水よりも、ガソリン不足が深刻、父の車用に50リッターを持参。他に食料も持参した。
29日仕事が終わり、夜11時過ぎに帰宅。食事をして仮眠するが、目を覚ますと何と5時!エッ~!高速道路の深夜割引を利用するつもりだったが、その夢は打ち砕かれた(笑)
逆に都内の渋滞に巻き込まれてしまったら・・・2日間の貴重な休みが1日潰れてしまう。猛ダッシュで藤沢をあとにするが、自分の車のガソリンも気にしなければ・・・結果渋滞に巻き込まれる事もなく都内を通過、無事東北道に乗ることができた。

東北道に乗ってからは、自衛隊・県警・各企業の救援物資を運んだ車が多く、そんな光景を見ていると、なぜか自分も任務に向かう心境に!(^o^)丿
埼玉・群馬・栃木を抜け福島に入ると、道路状況が急に悪くなる。特に安積近辺は、道路の地割れなのか至るところに段差があり、応急的に補修している。周りの住宅をみると屋根にはブルーシートが!この辺も揺れが酷く瓦が飛んでしまったのだろう。
途中、復路用にガソリンを補給、昼前には無事松島に到着した。



松島は、思ったより被害は少なく、観光桟橋付近のお土産店が立ち並ぶ辺りで床上浸水、但し泥は真っ黒で泥の処理で大変なようだ。個人的な見解だが1ヶ月もすれば元の光景に戻りそうだ。

実家に到着し、早速父の車にガソリンを補給。かなり喜んでいる様子だった。それから直ぐに母の入院する病院へ、再会を果たすも特に笑顔もなく、少しやつれている。震災でショック状態とは言えないが落ち込んでいる様子だった。逆に息子(俺)の心配ばかりしていて、もっと早く来るべきだったと自分を恥じた。お袋との会話を終え実家に戻るが、病院の近所が多賀城市なので、どのくらいの被害なのか、実際に目で見てみたいと思って少し遠回りしてみた。



多賀城市産業道路を卸町方面へ向かうルートは、車関係の会社が多いので歩道などいたる所に水没した車が折り重なっている。悲惨な光景だ。
この辺がどのぐらいの津波か、youtubeで探してみたら凄い画像があった。



このイオン多賀城店は自分が走ったルート沿いにあるお店だ。もし撮影中にあの津波が来たら命を落としたかもということになる。恐ろしい。

翌日の朝、松島から車で10分ぐらいの東松島市にいってみた。場所は野蒜地区、フジTVの笠井さんが現地レポートで小学校を訪れた場所だ。この町は壊滅的な被害と報道された場所だ。



この町を見た瞬間、涙が止まらなくなった。この町は、夏になると海水浴場で賑わい、ウインドサーフィンも楽しめるちょっとしたリゾート地だ。小学校の頃から友達と自転車で出掛けては、海水浴を楽しんでいた。帰りは真っ黒に日焼けして自転車に乗るのも痛くて辛かったのを思い出す。よくある田舎の光景だ。海岸線には高い防波堤があった。子供の頃は”なんでこんな高いもの作るんだ?上るのが面倒だな~”と思っていた。しかしその防波堤も効果がなかった。一部は崩壊し、海水が未だに引いてない。
放心状態で自宅に戻り、父と再度、母が入院する病院へ向かう。母に野蒜の状況を説明しようかと思ったが、これ以上落ち込む姿は見たくないので、話は避けた。しばらくしたあと”またすぐに来るから”と伝え病院をあとにした。



帰りに、多賀城から荒浜のルートを通ってみた。ここはTVで200~300人の遺体があると報道された場所だ。宮城にいた時は、ここに来る機会はほとんだなかったので、あまり景色なる覚えがない場所だが、野蒜と同じような光景が広がっていた。話題になった荒浜は通行禁止になっていて警察が迂回を促していた。その後東北道に乗り宮城をあとにした。

生まれ育った宮城、しかも沿岸地域は親戚・知人・友人が多く、今回の震災で親を亡くした、家を流された人も多い。出来る限り宮城に足を運び復興に貢献したいと思う。